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(闘病記のようなもの57)俳句に興味を感じる(2) [闘病]
短歌は五七五七七の三十一文字、ちなみに都々逸が七七七五で、いわゆる七五調の基本みたいなものだろう。この短歌の発句部分の五七五が独立したものが俳句であり、季節を表す季語が必ず含まれる必要がある。その程度のことは義務教育の国語の時間で学習したような気がする。もちろん、俳句を詠んでみた経験があろうはずがないにもかかわらず、それが売店の書籍でみかけた俳句の文字が妙に気になった。
入院してからテレビを見るよりもラジオを聞くほうが圧倒的に多くなった。中学生時代に深夜放送を聞くことにより始まったラジオ聴取も、しだいに高音質、音楽重視のプログラムへと嗜好が移り、中波からFM放送一辺倒になり、民放FM局が増えるにしたがって、それに比例するように、自分がラジオを聞く時間は短くなっていた。
それがFM放送開始40年の節目の年に、皮肉なことにも、病院のベッドで再び頻繁にラジオを再び聞くようになった。
放送開始40年記念番組と銘打ったプログラムでは、音楽に興味を持ち始めた頃の楽曲が放送され、懐かしく聴くことができた。しかし、通常のプログラムでは音楽的にも、話の内容的にも面白いと思える番組は少なく、やはりFM放送を聞く機会は少なかった。FM放送で唯一の例外は、日曜午後に放送されている「サンデー・ソング・ブック」だけだった。もちろん、この番組は病院に入る以前の健康な時期から聞き続けている番組でもあったが。
「サタデー・ソング・ブック」以外では、早口ではなく、ゆったりと聞き流すことができる特定の中波ラジオを聞いていると言うよりも、聞き流す時間が昼夜を問わず多くなってくる。
ラジオには、思っていたよりも俳句や川柳が話題になることが多い。そんなことに気づかされた。<闘病記のようなもの57・俳句に興味を感じる(2)>
「闘病記のようなもの」更新ペースについて [記録]
「闘病記のようなもの」は、四百字詰め原稿用紙で二百枚超の手書き原稿でした。
この手書き原稿の清書と推敲をかねてワープロ打ちを始め、そのついでにブログまで立ち上げてみたわけです。そしてその更新も56回に達しました。
ブログを立ち上げる際に、自分自身がモニター画面上でじっくりと読むことができる文字数としては八百文字(原稿用紙二枚)程度だろうといった経験的な縛りを自分自身に課してみました。
「ブログ掲載一回八百文字」と自身に課した縛りの影響なのか、それとも本来の手書き原稿があまりにも稚拙だったせいか、清書とか推敲とか言ったレベルの作業では留まらなくなってきました。
全面的な書き直しと言える作業になってしまい、しかも作業を急ぐばかりに週三回更新が定着し、いつのまにか更新にしばられるようになってきました。
誰から強制されたものでもなく、自分勝手に定着させてしまった更新ペースなのですが、この更新ペースにいつの間にか追い立てられるようなものを感じ始め、闘病記のようなものを書き始めたときの本来の思いと懸け離れたものになりつつあるように思われてきました。
したがった、勝手に習慣化した更新ペースですが、勝手にペースをおとし、勝手気ままにページ更新をするつもりです。
よろしかったら、気長に、長い目でおつきあい下さい。<了>
(闘病記のようなもの56)俳句に興味を感じる [闘病]
八月も終わりを迎えようとしていた。
急性骨髄性白血病と診断され、抗がん剤の集中投与による治療が始まって一ヶ月が経過し、二度目の骨髄検査を行う時期にさしかかっていた。が、骨髄検査の予定が立たなかった。
骨髄検査は、当然、骨髄穿刺を必要とし、できることなら避けたいと思う検査だった。骨髄穿刺の予定が立たないのは、それなりに喜ばしいような気もする。あいかわらず白血球値の回復が遅れていることが原因だった。だからと言って、外来患者などの人の出入りの少ない時間ならば、病院の外へ出ることは許されないが、病棟を離れ院内を散歩程度に動いても大丈夫な程度に回復していた。
院内限定、時間帯限定と何かと制限はあるが、個室に軟禁状態にあったときに比べれば、大きな違いがある。
単なる散歩ではなく、売店に行くことができる。そこには本や雑誌がある。郵便も自分の手で投函することもできるし、公衆電話も恐縮しなくてもかけることができる。
ある意味、これは社会との接点が開くことになる。店頭に並んだ雑誌を立ち読みし、インクと紙の匂いを感じ、内容を吟味する楽しさ。この春までは日常の暇つぶしと言った時間だったが、わずか一ヶ月の入院期間をおいて、いつもの書店ではなく、病院の売店の店頭であり、雑誌や書籍の種類はものすごく限定されているものの、こうした時間が暇つぶしではなく、楽しい時間だと感じた。
入院中に売店へ足を運ぶことは多かったが、実際に購入した書籍は少ない。入院前から日常的に気にしていた類の書籍がないこともあり、病室のベッドに持ち込んでまで読みたいと思うような書籍がなかった。ただ、唯一、気になったのは、普段は滅多に手にすることもなかった旅や食文化についての月刊雑誌、しかも俳句特集号だった。俳句と言えば国語の時間にならった程度の知識しかなかったにもかかわらず。<闘病記のようなもの56・俳句に興味を感じる>
(闘病記のようなもの55)不安のスパイラル(2) [闘病]
どんな言葉だって構わなかった。
単に不安のスパイラルや思考の無限ループから脱するためのきっかけが欲しかっただけであり、言葉が返ってくるまでの時間が短ければ短いなりに、見捨てられた患者的な疑惑が大きくなるだろうし、時間が長くなれば長くなるほどに、忘れられているといった感じの、どうでも良い患者的な不安や疑惑が生じてくるのだろう。
さらに、それは思考の無限ループや不安のスパイラルをより深く、大きなものへと成長させて行くのだろう。しかし、そうした負の思考の深淵に落ち込むことからは救われたように感じている。
冷静になって主治医からのこれまでの説明を振り返ってみれば、そんな不安のスパイラルに陥るような状態ではないことに、容易に気がつくはずだった。
すでに白血球値が底を打ち、回復傾向を示していることは数日前に聞かされていた。ただ、どの程度まで回復することが求められているかと言った具体的な数値については聞かされてはいなかったが。
抗がん剤により寛解に達しているかを確認するためには、骨髄穿刺による検査を必要とする。自分の場合には、この骨髄穿刺を実施するレベルにまで回復しておらず、病室が空いているのならば、このまま、静かにしておこうかといった程度の話のようだった。
大きな問題は、底を打ち、回復を始めた白血球値がそのまま順調に回復せず、足踏み状態になったことにあった。
これは、急な部屋替えと翌朝にあった地震による心理的な影響によるものではないかと自分では推測していた。
こんなことを考えることがすでに思考の無限ループや不安のスパイラルと言ったものに陥っているのか、それとも冷静な自己分析ととらえることができるのか、単なる能転気のなせるものか、大いに疑問となるところだ。<闘病記のようなもの55・不安のスパイラル(2)>
(闘病記のようなもの54)不安のスパイラル [闘病]
病棟の看護責任者から小言を貰うような、そんな行動をとってはいないつもりだが、それでも周囲から見れば変わった人だと思われているような気がしているだけに、小言でないとわかると緊張していたものが一気に抜ける。
そうなると、昨夜からの不安が疑問となってわきあがってくる。これが病人特有のものか、それとも外の景色が見えないことによるものかわからないが、朝から何かと思考の無限ループ、不安のスパイラルにおちいりがちになっているから尚更のことだ。
「わたしの身体はどうなっているんでしょうか?」
唐突に、そんな質問を看護師長に投げかけてみても、医師とは違い明瞭な返事があるとも思えない。たしかに質問を投げかける相手が違う。そんなことは充分に承知した上での言葉であり、言わずにはいられなかった。
看護師長は、少し待つように言葉を残して視野から消えた。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。そんなにも長い時間にわたり待たされたという感覚でもなければ、すぐに戻ってきたと言うほどの短い時間でもなかった。
再び姿を見せた看護師長は、これまでの記録を確認したが、個室やアイソレーターを必要としない程度には回復しているから大丈夫、といった内容の返事をくれた。
すでに、こうして一般の病室で一夜を過ごしているのだから、病院関係者の返答としては、そう言うしかないだろう。あれは間違った判断だったとは、決して言えるわけがない。
本当に、姿を消していた間に記録を確認してくれているのかと、その行動を疑おうと思えば疑うことだったできる。しかも、その確認は簡単にできる。最新の白血球値を問いかけてみれば良い。
そんな質問をした記憶はないから、そこまで疑心暗鬼にはなっていなかったようだし、その言葉を素直に信じることができた。<闘病記のようなもの54・不安のスパイラル>
(闘病記のようなもの53)枕元の国語辞典(2) [闘病]
入院時、パソコンの持ち込みは許可していないと言われたから、携帯電話回線でネットに接続可能になっているにもかかわらずパソコンの持ち込みは断念した。
パソコンが使えないとなると携帯メールと言うことになる。が、携帯のテンキーを使って文章を打つことは、まどろっこしくてできない。そんなまどろっこしいことをするくらいならば電話で済ますか、リアルなメールを書いたほうがましだとも考える。しかし、ワープロを使って文書を作るようになってから、漢字は読めても書くことができなくなった。しかも、パソコンには辞書まで内蔵されているから国語辞典を引くこともなく、前世紀末に購入した国語辞典は、真新しいまま、本棚に眠っていた。
手書きで文書を書く必要があるとなれば、国語辞典がないと平仮名とカタカナだけの文書になってしまう。ただでさえ汚い文字で、文章の内容以前に、文字そのものを人の目にさらすことが躊躇われるというのに、漢字のない、そんなみっともない文章を人目にさらすようなことは絶対にしたくない。
そんな思いもあって本棚に眠っている国語辞典を引っ掴んではきたが、やはり枕元に国語辞典がおいてある病人というのは、どこか可笑しな患者と言うことになるだろう。と、自分でも思っていた。
その後、この「集英社国語辞典」のとなりに「角川俳句歳時記」が並ぶようになるのだが・・・。
そんな、普通の入院患者とは、明らかに、可笑しな行動をとっているだろう。と、そんな自覚があるだけに、看護師長直々に何を言われるのかと不安になる。
自分の表情がこわばり、凍り付いていくかのように思われるときに、看護師長の発した言葉は意外なものだった。
昨夜、突然におきた部屋替えに関する一件への協力を感謝すると言ったものだった。
「そんなことか」
安堵の言葉が、思わず口をついて出た。<闘病記のようなもの53・枕元の国語辞典(2)>
(闘病記のようなもの52)枕元の国語辞典 [闘病]
朝と夕方の二回、看護師が引き継がれると挨拶がてら面倒を見てくれる看護師が、確認をかねて病室を訪れてくれる。それは日常的に繰り返される光景となっていた。
昨夜の消灯間際の急な部屋替え、さらには未明の地震。この地域では大した被害もなく、そんなに大きな地震でもなかったが、それでも稀と言えるほどの地震だった。
そんな朝でも、日常は繰り返される。ただ、いつもより少し時間が早い。しかも、これまでに見た記憶がない看護師だった。
ベッドに横になったままでは、幾ら病人と言っても、やはり礼を欠くのではと思い上体を起こそうとすると、彼女はそのまま横になっているように言う。
さらに、続けて名前と院内のでの職位について、聞き流してしまうほどに軽い口調で述べた。やはり日常の風景となっている引き継ぎの確認の訪問ではなかった。なぜならば、彼女は単なる看護師ではなく、この病棟の看護師長だった。
看護師長の訪問を受けるような、そんなまずい振る舞いをしたのだろうか。
一瞬、そんな思いが頭をよぎる。
考えてみれば、腎臓や肝臓への負担を減らすために水分を摂取するように言われている。が、病室にある水道水を飲むことは生水だから禁じられている。したがって飲料水はダイニングにある給茶器を利用することになる。
昨日までの個室に軟禁状態にある時期では、看護師に頼めばポットで運んでもらうこともできた。しかし、自分はそこまでお願いすることが心苦しく感じられ、廊下に人の往来が少ない頃合いを見計らって、お茶くみに行くことも多かった。そうした行為が、小言を受ける対象になったのだろうか。
さらに見舞客は少ない。と、いうより限られた身内以外は全くない。くわえて枕元には一冊の国語辞典が置いてある。<闘病記のようなもの52・枕元の国語辞典>
(闘病記のようなもの51)窓 [闘病]
これ以上に新しい情報は得られないだろうとテレビを消す。横になっていたときには気がつかなかったが、こうして上体を起こし、テレビを消すと、いつも、当然のように見えていたモノが見えないことを実感する。
昨夜のうちに部屋替えがあったのだから、窓の向こう側の景色が違っているのも理解できる。でも、そうした問題以前に、窓そのものがない。
昨日というよりも昨夜までというのが正確だろうが、とにかくアイソレーターを必要とし軟禁状態にあった個室から突然に部屋替えした先は通常の四人部屋。しかも廊下側であり、カーテンで区切られたスペースに、当然のように窓はない。
昨日の午後にはアイソレータのある部屋で様子を見ようかと主治医に言われ、その午前中には看護師から、シャワー室は清掃直後に使うようにと叱られている身である。それが個室の軟禁状態から突然に解放され、いきなり通常の空気の中で一夜をすごした。
やはり多くの戸惑いと疑問が頭の中を巡る。
その大きな要因に窓の存在が絡んでいたことに初めて気がついた。
窓の景色を見ること、それは視線を落ち着かせることであり、こうして視線を落ち着かせる場所がないと、こうまでも人を不安にするのかとばかりに、些細なことがどんどんと心の中で膨らんでいくような気がする。
病院という建物であり、通常の建物に比べれば空調設備などは清潔に保たれているはずだから、外気に直接さらされるような不安はないだろうし、それなりに白血球値が回復しているのだから心配ないという思いもある。
でも、やはり本当にこんな状況に自らの身体を置いて大丈夫なのだろうかと、自分の周りを見回しながら、そんなことを考えては不安になり、不安になるからさらに考える。
思考の無限ループへとあっさりと落ち込んでいく。<闘病記のようなもの51・窓>
(闘病記のようなもの50)心配できる立場か? [闘病]
知らなければ、知らないまま時間が過ぎていくのも悪くない。自分の病気のことも、こうして病院で生活していることも友人関係には伝えていない。
病気のことを知らせたのは、仕事場の直属の上司だけだった。仕事をするつもりで出勤したものの、いつのまにか仕事場から大学病院へ行くことになり、そのまま入院加療、しかも退院の目処が立たないとなれば、今後の勤務に支障が出る。真っ先に、連絡を入れるのは当然のことだろう。
次に連絡を入れたのが、近くに住む親戚である。入院中に何かと世話になることが予想されるので、そうした雑事をお願いする意味もあって、入院後、しばらくしてから電話を入れた。
それ以外には自分から病気のことを知らせた人はいない。
特に、友人関係については知らせるべきどうかは悩んだ。
結局、知らせることなく日数だけが過ぎた感じだった。そして未明の地震で気になることは、自分のことではなく、地震のあった地域に住む友人の安否である。
一日が動き始めたばかりであり、通信が混乱していることは予想できる。肉親でもない人間の安否確認の電話は、通信状況が落ち着くのを待って行うべきだろう。何と言っても、本当に彼が助けを必要とする状況にあったとしても、逆に、そうした連絡が入ったとしても、今の自分には駆けつけることはおろか、何もできることはない、単なる足手纏いでしかなく、心配されるだけの立場でしかない。
時間が経ち、落ち着いてからゆっくり考え、それから電話なり、手紙なりで連絡を取ってみれば良いだろう。そう考えるしかないように思えた。
こういったこともあろうかと、リアルなメールが書けるように、愛用の万年筆と便箋、国語辞典まで病室に持ち込んでいる。今は急ぐべき時ではないだろうと決心した。<闘病記のようなもの50・心配できる立場か?>
(闘病記のようなもの49)今では微々たるモノだろうけど(3) [闘病]
毎朝のルーティンである検温、採血といったモノを済ますと朝食までに時間がある。その僅かな時間、横になっていれば二度寝へと落ちていくことになる。
特別な予定があるわけでなし、二度寝だろうが、一日を通して寝ていようが一向に構わないわけであり、そんな怠惰な生活が許される毎日なのだ。
その朝、入院以来一度も入れたことのないテレビの電源を入れた。この2009年当時は、テレビの地上波放送がアナログからデジタル放送への切り替えを控えた時期であり、我が家ではすでに横長サイズのデジタル波で見ているテレビが、病院ではアナログの従来サイズの液晶テレビだった。そんなこともあって、テレビを見る気にはなれなかったし、どんなテレビ番組を見ているかによって、その人の趣味などをある程度知ることができる。そんな判断を周りにされたくない気も合った。
しかし、その朝は特別だった。未明にあった地震について詳しいことが知りたかった。別に詳しいことを知っても、何もかわりはしない。仮に、知り合いが被災者となっていっても、今の自分には、病棟から離れることもできない身であり、何もできることはない。
ラジオのニュース速報で大まかな情報は掴んでいたが、やはりテレビのニュース映像で場所や被害状況を確認する必要性を感じた。
もちろん、自分の生活地域に被害が及んでいないことをラジオで確認しているから感じる野次馬のような意識だったに違いない。
朝のテレビニュースまでには地震の発生から相当に時間が経っており、被害地域や状況の映像が流された。
映像では、東名高速道路が不通になったのも一目瞭然に理解できる。さらに、被害の大きかった地域リストの中に、友人の出身地の地名があった。
長男だった彼は、今では実家に戻って、おとなしくしているはずだった。<闘病記のようなもの49・今では微々たるモノだろうけど(3)>
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